FC2ブログ

Tunturi Sketch Book

演奏会やら展覧会やら、ブックレビューやら・・・

プロフィール

Tunturi

Author:Tunturi
Tunturiですよ。

八王子から早く引っ越したい。
空が広いところに住みたいな、と思う。
人が三人いて、秘密を守るためには
そのうち二人はこの世にはいられないんです。
だそうですよ。

Favorit :
河合隼雄、ジジュク、ユン・ミョンフィ、エイヤ=リーサ・アハティラなどなどなど。

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブログ内検索
RSSフィード
リンク
ブロとも申請フォーム
カウンター
リンク 2
TOP > スポンサー広告 > 村上春樹インタビュー 「僕はなぜ エルサレムに行ったのか」TOP > Diary > 村上春樹インタビュー 「僕はなぜ エルサレムに行ったのか」

スポンサーサイト   --.--.--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

村上春樹インタビュー 「僕はなぜ エルサレムに行ったのか」   2009.04.30

『賞を辞退せよ、との声。それでも伝えたかったこと』

 二月十五日、僕はイスラエルでエルサレム賞を受賞し、スピーチを行いました。 一月下旬に受賞が報じられてから、辞退するべきだという声がインターネットで高まりました。 一部の新聞からは、大阪のNGOが出した公開質問状について答えるべきだと求められました。 イスラエル軍のガザ侵攻に抗議し受賞を辞退すべきだという意見は、予想していました。僕自身、受けるべきかどうかずいぶん迷ったからです。でも事前にそれについて意思表明を求められ るのは、少し筋が違うように思いました。僕は僕なりに様々な要素を深く考慮し、個人の資格で エルサレム行きを決断したわけです。自分の下した決断について、事前に弁解したり釈明したりするのは、もともとあまり好きじゃない。黙って出かけていって、やるべきことをやって帰って こようというのが僕の思いでした。そのときは肝心のスピーチの方に意識を集中したかった。 その結果、僕の発言したことで批判されるのなら仕方ありません。自分がこうしようと決めたこと だから、甘んじて批判は受けます。
 友人や親しい編集者からも、行かない方がいいんじゃないかという忠告のメールをもらいました。 ただ僕は新しい長編小説やらチャンドラーの翻訳やらのゲラを三冊分、四百字詰めで四千二百枚分ぐらい抱えていて、イスラエルに行く前にそれを片づけなくてはならない。一分でも時間がほしいときだったし、誰に対しても自分の考えを細かく説明しているような余裕はありませんでした。 ただ僕なりに考えに考え、腹を決めて行動しているわけです。長いつきあいの人にもそういう部分を察してもらえないというのは、やはりきつかったですね。だから出かけるときには孤立無援という感じでした。『真昼の決闘』のゲーリー・クーパーになったような気分だった。まああんなにかっこよくはないけど、気分的に。

『受賞を受け入れるまでの経緯』

エルサレム賞を受けてもらえるかという問い合わせが来たのは、昨年十一月二十五日です。この
時点で賞を受けるべきかどうか非常に迷いました。 僕はパレスチナ問題には昔からまあ人並みに関心を持ってきました。「独眼の将軍」ダヤン国防相の時代から報道を追っているし、一応関係する本も読んできましたから、歴史的な経緯はだいたい頭に入っています。
 イスラエルはユダヤ系住民の権益を守るために、ウェストバンク(ヨルダン川西岸)やガザ地区にパレスチナ住民を閉じ込め、難民になった人々を国内に戻さないという政策を取っています。僕はそれを正しいことだとは思いません。それで最初は受賞を断わる方向に心が傾いていました。
 でもエルサレム賞について調べてみると、スーザン・ソンタグやアーサー・ミラーなど、これまでの受賞者で、イスラエルに対してかなり批判的なスピーチをした人がいます。そのスピーチの内容も公開されています。もしそのように人々の前で自由に話す機会を与えてもらえるのなら、行く価値があるのかもしれないと考えました。受賞を断わるのはネガティブなメッセージですが、出向いて授賞式で話すのはポジティブなメッセージです。常にできるだけポジティブな方を選びたいというのが、僕の基本的な姿勢です。
 また、これはエルサレム・ブックフェアに所属する賞であって、国家から招かれたわけではありません。小説や本によって結びついている人たちから、一人の日本人の作家として招かれるのなら、それはそれで意味があるだろうとも思いました。賞をもらう、もらわないよりは、むしろイスラエルの読者に直接話しかける機会を与えられるために、そこに行きたいと思ったわけです。
 ところが、十一月二十七日にガザの空爆が始まり、僕はまた深く悩むことになりました。一般市民が密集して住んでいる閉鎖された都市に対して、イスラエル軍は最新兵器を駆使してきわめて激しい攻撃をおこなっている。そうなると話はまた違ってきます。初めの連絡では十二月に賞の発表があると いう話でしたが、いつまで経っても発表されません。

 ガザ侵攻が始まってから一月十八日に一方的停戦になるまでは、問い合わせても事務局からは返事がほとんど返ってきませんでした。向こうでもそれなりに混乱みたいなものがあったのかもしれません。
 一月二十一日、イスラエルの有力紙「ハアレツ」が僕の受賞を発表しました。その時までに、空爆によって千三百人以上のパレスチナ人が亡くなったという報道がありました。その時点で僕は、事前に送るように頼まれていた受賞スピーチを書きました。外交官や政治家ならこのタイミングで発言しづらいことも、小説家になら率直に言えるかもしれない。しかし僕としては、直接的な政治的メッセージを送るよりは、小説家の視点でどう物事を捉え、どう考えるかを訴えることがより大事ではないかと考えました。やはり僕は小説家という資格でエルサレムに行くわけですから。スピーチを書き上げるのに三日くらいかかったかな。 本来なら自分でひとまず英語にするのですが、時間がなかったので、日本語で書いて僕の翻訳者のジェイ・ルービンさんに急いで英訳してもらい、自分で読みやすいようにいくらか手を入れて、それを事務局へ送りました。それがここにある英語と日本語の原稿です。細かいところは現場で適当に変えたけど、基本的にはこのとおりにしゃべりました。
 もしこのスピーチでは困るとか、一箇所でも表現を変えてほしいと言われたら、即座に受賞を断わるつもりでしたが、単に「原稿をありがとうございました」という返事だったので、それなら覚悟を決めてイスラエルに行こうと思いました。
 日本で受賞が報道されてから、パレスチナ問題について活動している人たちから問題提起があっ
たのは、有意義なことだったと思いますよ。僕にももちろん言い分はありますが、どんなことだって賛否両論あって当然だし、たとえ僕が批判の矢面に立ったとしても、パレスチナで起きていることについてより多くの人が興味を持ってくれれば、それはそれで意味があります。大事な問題ですから。
 ただ一方で、自分は安全地帯にいて正論を言い立てる人も少なくなかったように思います。たしかに正論の積み重ねがある種の力を持つこともありますが、小説家の場合は違います。小説家が正しいことばかり言っていると、次第に言葉が力を失い、物語が枯れていきます。僕としては正論では収まりきらないものを、自分の言葉で訴えたかった。

『イスラエル滞在』

日本を出たのは二月十二日。翌日、ローマ経由でイスラエルに着いて、エルサレムに三泊、テルアビブで一泊して、十八日に帰国しました。
 僕は話すのがあまり得意ではありません。父親の葬儀で挨拶したら、叔父さんから「お前はやっぱり書くことに集中した方がいいよ」と言われたぐらいです (笑)。日本ではまず人前に出ないし、海外の大学や文学賞に招かれて年に一度ぐらい英語で講演みたいなことをするぐらいです。不得意だけどそういうのをやらなくてはならないと思うのは、九一年から四年余りアメリカに住んで、日本の文化的発信力の弱さを痛感したからです。当時は日本経済が好調だったせいもありますが、アメリカ人と話しても、経済の話で終わってしまう。それはさびしい経験でした。だから小説家として海外から招かれたら、出て行って僕なりの考えを伝えることが一種の責務なのだと考えるようになりました。たとえやりたくなくても、がんばらなくてはならないと。
 スピーチでは、会場にいる人たちの顔を見ながら話すようにしています。ピアニストが楽譜を置いておくように、演壇にいちおう原稿を置いてはおきますが、今回のような十五分程度のスピーチなら極力暗記するように努めます。日本では忙しくて練習できなかったので、飛行機の中やらホテルやらで、とにかく頭に叩き込んで練習しました。

 スピーチではイスラエルが悪いとは明言していません。もちろん、イスラエルの政策に対する僕の批判的な見解が伝わるように心がけましたが、名指しで非難することは避けました。それについてなまぬるいと不満を持つ人もいるでしょう。しかし小説家には小説家の言葉があるし文脈があります。他の言葉や文脈を使ったら嘘になります。それに直截な表現で非難すれば、防御作用みたいなものが働いて、イスラエルの人たちはおそらく僕の言葉を頭からシャットアウトしてしまうでしょう。それだけは避けたいと思いました。この問題は簡単に白や黒で割り切れることではありません。実際に現地に行ってみるとそれが空気としてわかります。
 体制やシステムと、ひとりひとりの人間の心との関わりは、僕が作家として一貫して書き続けているテーマです。これなら自分の言葉ではっきりと素直に表現できます。そうすればイスラエルの人たちの心にも、僕の訴えはそれなりに入っていくことでしょう。

 授賞式の会場には七百人ぐらいの聴衆がいましたが、僕が話し終えるとたくさんの人が立ち上がって熱心に拍手してくれて、それは嬉しかったですね。少なくとも靴は投げられなかった(笑)。中には不快に思っている人もいたようですが、僕の気持ちはおおむね伝わったと思います。
 ただ、シモン・ペレス大統領には今でも申し訳なかったなと思っています。授賞式の始まるまえに彼に、「僕は十四年前に『ノルウェイの森』を読んだ。君の本は気に入っているよ」と言われました。確かに十年ほど前、彼が演説で『ノルウェイの森』を引用して驚いたことがあります。外交辞令ではなしに、ちゃんと読んでくれているんですね。
 ところが、スピーチの途中から最前列に座っている大統領の表情がこわばってきました。スピーチが終わっても席から立とうとしなかった。みなが立って拍手するので、仕方なく立ち上がりましたが、そのあともう和やかという空気はなかった。もちろん推測に過ぎないけど、おそらく彼には彼の立場があったのでしょう。

 でも、エルサレム市長のニール・バラカットさんは、スピーチのあと大統領の前で積極的に握手を求め、まっすぐ僕の眼を見て、「あなたの意見は小説家として実に誠実なものだ」とほめてくれました。それは嬉しかったですね。
 彼は去年の十一月に市長になったばかりで、まだ五十前です。元々はIT系の企業家で、ビジネスを辞めて政治の世界に入ったそうです。フルマラソンを何度か走ったことがあるというので、授賞式が始まるまで二人でマラソンの話をしていました。当たり前の話ですが、イスラエルにもいろんな考えを持った人がいます。みんなが同じ考え方をしているわけじゃない。そういう人に会えたことは僕としてはひとつの大きな収穫だったし、実際に行ってみてよかったなあと思いました。大事なのは総論ではなく、一人ひとりの人間です。個人というのがすべての出発点だというのが僕の信念です。
 イスラエルに行って、イスラエルを批判するスピーチをしたということで「勇気がある」と言ってくれる人もいますが、僕自身はとくに勇気があるとは思いません。イスラエルは独裁国家じゃないし、基本的には言論の自由な国ですから。それよりはゲストとして招かれて、いろいろと親切にしてもらいながら、そういう人たちの前でイスラエルについて批判的なメッセージを発しなくてはならなかったことに対して、つらい思いがありました。言わざるを得ないことだからもちろん仕方がないんだけど、僕としてはそっちの方がむしろきつかったです。素直にありがとうというだけで済んだら、どんなによかっただろうと。


『イスラエルの人たち』

ガザやウェストバンクに行くことも考えましたが、今回はそれよりも、普通のイスラエルの人が何を考えてどんなふうに生きているのか、むしろそっちの方を知りたかった。エルサレムやテルアビブの町を歩いて、できるだけ多くの人に話しかけてみました。みんなだいたい英語がしゃべれるから、そういうのは楽でした。

 僕の本はヘブライ語にも翻訳され、かなり売れているそうです。本屋に行くと『ノルウェイの森』『アンダーグラウンド』『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』などが平積みになっていて、本当かどうか知らないけど翻訳ものとしては『ハリー・ポッター』の次に人気があるということです。町を歩いていたら多くの人に握手を求められて驚きました。スピーチの前でもあとでも、みんなとても友好的だった。
 町の人は素朴に裏表なくいろんなことを話してくれましたが、多くの人は多少の差こそあれ、日本人の感覚からすればかなり愛国的です。彼らはイスラエルの公式歴史観をかなり強く注入されているという印象を受けました。学校で叩き込まれ、十八歳から三年間兵役につき、そこで思想教育を受ける。女性の場合は二年です。兵役が終わっても、四十二歳まで年に一ヵ月の予備役があり、会社を休んで軍隊に勤務しなくてはならない。
 自治区にパレスチナ人を詰め込んでいるのも、多くの人は正しいことだと考えています。彼らは自治を許可されて自分の土地で暮らしているし、われわれはこっちでユダヤ人のスタンダードで生活している、それのどこが悪いんだと。でもパレスチナ人はどこへ行くにも軍の厳しい検問を受けなくてはいけない。経済活動も厳しく限定され、家も自由に建てられず、自分の暮らしている土地の主権も持ってない。それはやはりおかしいと思う。エルサレムに入る検問所で、若いイスラエル軍の兵士が、パレスチナ人の家族を車から引きずり出して、お父さんを殴っているのを見ました。事情はよくわからないけど、そういうのを見ているのはやはりつらかったですね。

 ウェストバンクでは有刺鉄線と監視塔のある壁が、ハイウェーに沿って延々と続いています。この壁はイスラエル全土で六百キロ以上あります。ためしに運転手に「この壁は何のためなの」と聞いたら、「動物がハイウェーに出てこないように囲っている」と言う。動物除けのために、二十億ドルもかけて高さ八メートルの壁を建てるかよと思うけど。
 でもそういう発言に対して僕はあえて反論しませんでした。どうしてかというと、そういう主張をする人も、心の底では何か割り切れないものを感じているという雰囲気を強く感じたからです。

 ある人は僕にこう言いました。「イスラエルの国家予算の四五パーセントは軍事費だ。俺たちの所得の五〇パーセント近くは税金で持っていかれる。建国してから六十年間、俺たちが生きのびるためにはそれだけの金が必要だった。そんなことがなければ俺たちの暮らしがどれほど豊かになっていたか、考えてもみてくれ」と。それは市民の実感としてはよくわかります。そういう観点からすれば、イスラエルの側からもアラブ諸国の側からも、もっと賢明な選択があったはずだと思うんです。もう少し意地を張らず、お互いに智恵を働かせれば、ここまで深くこじれることはなかったはずだし、どちらの側の人々ももっと豊かで平和な暮らしを送っていたはずだろうと。ところがそれが実際にはできない。それは僕がイスラエルで肌身に感じたもっとも大きな実感でした。白か黒かでは割り切れないと言うのはそういう意味です。


『父にまつわる死の気配』

ホロコースト・ミュージアムも見にいきました。僕が会って話した年配の人の中にホロコーストの生き残りが何人かいましたし、若い世代はその子どもや孫にあたります。イスラエルは基本的にはホロコーストの生き残りによってつくられた国です。彼らとじかに話していると、やはり重すぎて言葉が出てこない。ただそういう体験をした人々までが僕の小説を手にとって読んでくれていることには感激しました。

 ホロコーストを生き残った人は恥の感情を強く持っているとよく言われますが、確かにそれは感じました。ユダヤ人はあの時、ナチに抵抗できずに家族や仲間を収容所で殺され、目の前で石鹸にされてしまった。だからこれからは決して無抵抗でいてはいけない、再び石鹸になってはいけない、という気持ちがすごく強い。実際にそういう生き残りの人たちは一部で侮蔑的に「石鹸」と呼ばれているそうです。

 つまりイスラエルという国自体が、個人と同じレベルでトラウマを背負っているのです。過剰防衛はいけないと頭でわかっていても、少しでも攻撃されれば身体が勝手に強く反撃してしまうのかもしれない。正しい正しくないとは別に、我々はその心理システムを理解する必要があると思います。
 その国でスピーチをするにあたり、僕は父のことを話そうと思いました。第二次大戦前の日本には、天皇制と軍国主義がシステムとして存在していました。その中で多くの人が死んでいき、アジアのいろんな国で沢山の人を殺さざるを得ませんでした。それは日本人が背負っていかねばならないことだし、僕が日本人としてイスラエルで話をするには、そこから発信すべきだと思ったのです。
 戦争体験について、正面から父に聞いたことはありません。聞くべきだったかもしれないけれど、やっぱり聞けなかったし、父もたぶん話したくなかったでしょう。父の人生が戦争で変わったことは確かだと思います。僕は戦後生まれで直接的な戦争責任はないけれど、記憶を引き継いでいる人間としての責任はあります。歴史とはそういうものです。簡単にちゃらにしてはいけない。それは「自虐史観」なんていういい加減な言葉で処理できないものです。「システム」という言葉にはいろんな要素があります。我々がパレスチナの問題を考えるとき、そこにあるいちばんの問題点は、原理主義と原理主義が正面から向き合っていることです。シオニズムとイスラム原理主義の対立です。そしてその強烈な二つのモーメントに挟まれて、一般の市民たちが、巻き添えを食って傷つき、死んでいくわけです。

 人は原理主義に取り込まれると、魂の柔らかい部分を失っていきます。そして自分の力で感じ取り、考えることを放棄してしまう。原理原則の命じるままに動くようになる。そのほうが楽だからです。迷うこともないし、傷つくこともなくなる。彼らは魂をシステムに委譲してしまうわけです。

 オウム真理教事件がその典型です。僕は地下鉄サリン事件の被害者にインタビューして『アンダーグラウンド』を出した後、信者たちからも話を聞いて『約束された場所で』にまとめました。その後も東京地裁、高裁に通って裁判を傍聴しました。実行犯たちはもちろん加害者であるわけだけど、それにもかかわらず、僕は心の底では彼らもまた卵であり、原理主義の犠牲者だろうと感じます。僕が激しい怒りを感じるのは、個人よりはあくまでシステムに対してです。
 彼らは自我をそっくりグルに譲り渡し、壁の中に囲い込まれ、現実世界から隔離されて暮らしていました。そしてある日、サリンの入った袋を与えられ、地下鉄の中で突き刺してこいと命じられたときには、もう既に壁の外に抜け出せなくなっていたのです。そして気がついたときには人を殺して捕えられ、法廷で死刑を宣告され、独房の壁に囲まれて、いつ処刑されるかわからない身になっている。そう考えると寒気がします。BC級戦犯と同じです。自分だけはそんな目には遭わないよと断言できる人がどれだけいるでしょう。システムと壁という言葉を使うとき、僕の頭にはその独房のイメージもよぎるのです。

 ネット上では、僕が英語でおこなったスピーチを、いろんな人が自分なりの日本語に訳してくれたようです。翻訳という作業を通じて、みんなが僕の伝えたかったことを引き取って考えてくれたのは、嬉しいことでした。
 一方で、ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思うのは、ひとつには僕が一九六〇年代の学生運動を知っているからです。おおまかに言えば、純粋な理屈を強い言葉で言い立て、大上段に論理を振りかざす人間が技術的に勝ち残り、自分の言葉で誠実に語ろうとする人々が、日和見主義と糾弾されて排除されていった。その結果学生運動はどんどん痩せ細って教条的になり、それが連合赤軍事件に行き着いてしまったのです。そういうのを二度と繰り返してはならない。
 ベトナム反戦運動や学生運動は、もともと強い理想主義から発したものでした。それが世界的な規模で広まり、盛り上がった。それはほんの短い間だけど、世界を大きく変えてしまいそうに見えました。でも僕らの世代の大多数は、運動に挫折したとたんわりにあっさり理想を捨て、生き方を転換して企業戦士として働き、日本経済の発展に力強く貢献した。そしてその結果、バブルをつくって弾けさせ、失われた十年をもたらしました。そういう意味では日本の戦史に対して、我々はいわば集合的な責任を負っているとも言える。

 僕らの世代は六十前後になりました。そろそろ定年退職する年齢だし、会社を離れ、ひとりになって考え直すにはいい時期じゃないかと思います。転換期というか、もう一度それぞれのかたちで理想主義みたいなものを取り戻す道を模索するべきなのかもしれません。僕自身も、漠然とではあるけれど、まわりを見渡してそういうことを感じています。我々にはそういう責務があるのではないかと。


スポンサーサイト

COMMENT

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURL:
    (copyボタンはIEのみ有効です)
«  | HOME |  »
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。